1986年(昭和61年)11月25日、栃木県立高校1年生のA子(当時16歳)が行方不明になり、12月11日、鹿沼市内の山林で遺体となって発見された。
A子の靴下には数種類の短い毛髪が発見されたため、被害社宅の筋向いにある理髪店の篠原伸一(当時36歳)が捜査線上に浮上した。
警察は篠原伸一に任意同行を求めて事情聴取をした。
最初はとぼけていた篠原伸一も、数人の毛髪の件を持ち出されると もはや言い逃れはできないとあきらめて犯行を認めた。
ご近所なので、当然 篠原伸一と被害者一家は顔見知りであり、A子のことも子供のころから知っていたが、高校生になってめっきり女らしくなったA子に篠原は興味をそそられていた。
当時のテレビでは女子高生の奔放な性が取り上げられていたので、篠原は女子高生は誘えば簡単に応じるものだと考えていた。
そして妻が留守の間にA子を家に招きいれたのだが、どう切り出していいのかわからず、思い切って「あんたが好きだ」と単刀直入に言ってみた。
それを聞いたA子は驚いて逃げ出そうとし、意外な展開に篠原伸一は この話が家の者や近所の人に漏れると大変だ!と動転し、そこにあった布テープでA子の首を絞めて殺してしまった。
警察はA子殺害の調書を固めた後、すぐに次の取調べに入った。
それは1983年(3年前)に起こった幼児殺害事件についてである。
その幼児殺害事件で篠原伸一は重要参考人だったのだが、決め手がないまま釈放せざるを得なかった。
そんな篠原伸一をこの機会に締め上げるのが捜査の定石である。
被害者の幼児は、やはり近所に住んでいたB男ちゃん(当時6歳)だった。
B男ちゃんは1983年8月13日から行方がわからなくなり、3ヵ月半後に市内の山林で白骨死体で発見された。
失踪直後にB男ちゃんの自転車が篠原理容店の前の道路に放置されていたことから警察は篠原伸一を追及したのだが証拠がなく、事件は迷宮入りとなっていた。
厳しい追及に、篠原伸一は2月7日、ついに幼児殺しも自白した。
B男ちゃんは篠原の長男と同年代の遊び友達で、2人はよく理髪店で悪ふざけをして遊んでいた。
B男ちゃんは頭も体も長男より優れていた。
篠原が怒って追いかけると、運動神経のいいB男ちゃんはうまく逃げてしまう。
そんなB男ちゃんが憎らしく感じ、モタモタしているわが子を代わりに殴ったりしてしまうと 篠原は惨めな気持ちに陥ったという。
1983年8月13日、篠原伸一は故障したドライヤーの分解修理をしていた。
そこにB男ちゃんがやってきて、床に並べておいた部品を踏んづけて壊してしまった。
普段からB男ちゃんを不愉快に思っていたためか、それをわざとやったように見えた篠原はカッとなり、B男ちゃんを絞め殺してしまったのだった。
篠原伸一被告はA子への殺人と死体遺棄、B男ちゃんへの殺人の罪で起訴された。
死体遺棄罪はすでに時効が成立していたため、B男ちゃんは殺人罪のみの起訴である。
1988年(昭和63年)11月29日、一審・宇都宮地裁は篠原伸一被告に 求刑通り死刑判決が言い渡された。
宇都宮地裁
なんの罪もない2人を殺害した責任は重大で、情状酌量の余地はなく、極刑が相当である。
被告側はこれを不服として控訴。
そして1990年3月13日、二審・東京高裁では 篠原伸一被告は死刑から無期懲役に減刑されることとなったのである。
その理由はA子殺害に使われた布テープはたまたまそこにあったものであると認定されたから。
殺害のために前夜から用意しておいたと認定した一審認定は誤認であるとし、二審では殺害の計画性が否定されている。
さらに両犯行とも偶発的に起こった殺人と認定し、被告には矯正の余地が残されているとの情状からの減刑となったのである。
東京高裁
残忍、非情な犯行で若い命を二度も奪った責任は極めて重大だが、死刑は究極の刑罰であり、適用は慎重に行われなければならない。
死刑の選択が、真にやむをえない場合と断定することにはためらいが残る
求刑死刑からの無期懲役判決に上告はなく、ここに篠原伸一被告の無期懲役が確定した。
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